NHK大河ドラマ「大友宗麟」誘致推進協議会

大友氏について

大友氏の初代能直は1172年、相模国古庄の郷士近藤(太)能成と源頼朝の侍女(側女?)利根局の間に生まれる。実父能成は早世したとされ、母の姉の夫中原親能の養子として育つ。17歳で頼朝にお目見え、養父の官位より2階級上の左近将監を拝任した。初見参でそんなことは考えられず以前から頼朝は知っていたらしい。その寵愛ぶりは『吾妻鑑』で知ることができる。建久7年(1196年)頼朝より豊後を拝領し、以後約400年にわたり豊後を中心に一時は北部九州6カ国の守護として22代大友義統(1593年)まで続いた名門である。

大友能直の出自については、源頼朝の落胤説が今もって根強い。しかし学会ではそれはないというのが通説である。鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』の能直に関する記述にそれをうかがわせるものはないことからの説だが、言いきれるだろうか。
頼朝落胤説は7代氏泰が南北朝の初め足利尊氏に味方し、それにより源氏一族に加えられたため、氏時以降の子孫によって初代まで遡ぼらせ落胤説が生まれた模様である。

しかしながら、7代氏泰、8代氏時兄弟は、初代能直の母親を大友氏の祖として大いに顕彰し、その出生地である群馬利根郷川場村に吉祥寺を建立した。
もともと大友という名乗りは、初代能直の母親の波多野(経家)氏の本貫地である小田原の大友郷の地名が由来である。
一方、実父とされる古庄能成に対し、能直はじめ子孫は誰一人として関心を示さず顕彰した事実がないのだ。その事は何を意味するのか。
さらに豊後下向の折、活躍した能直の弟とされる古庄重吉とその子孫(古庄氏・朽網氏)に対し、大友一族に加えていない。同父母ならば考えられないことであろう。

当NHK大河ドラマ推進協議会としては、その件に関し非常なる関心を寄せている。

大友氏四百年の時代区分と動き 大友宗麟、主な足跡とその後